魔術的リアリズムについて

12月17日(土)
 校正ゲラを返した。今年は編者や編集者の方に迷惑をかけた一年だった。申し訳ない気持ちでいっぱいである。けれども、いい文章が書けたと胸を張って言える。ありがとうございました。

 グランプリファイナル・バルセロナ大会、ユーリ・プリセツキーがSPの世界最高を叩き出した。ピチット・チュラノンの演技では泣きそうなほどの感動があった。オタベックには迷いがなかった。JJは本当に格好よかった。織田信成の解説も見事だった。

12月18日(日)

 ある集まりで、藤井貞和の詩「雪、nobody」を朗読する機会があった。2014年1月24日に行われたUTCPシンポジウム「新たな普遍性をもとめて―小林康夫との対話」で朗読したが、もう一度、どこかで朗読したいと思っていた。シンポジウムで話したのは、魔術的リアリズムについて。以下少しその内容を書きたい。

 まず、シンポジウムでは、魔術的リアリズムが特別な魔法や幻想を必要としているのではないということを強調した。魔術的リアリズムは、科学的な知見から世界を写しとった「近代西洋のリアリズム」に対して、別の視点を提示し、「もう一つの現実」を明らかにするのではないか。このことについて考えるために引用したのが藤井貞和の詩「雪、nobody」だった。

 藤井貞和の詩には、ふたつの言語のあいだにいる「日本人の子」が「nobodyがいたよ」という場面が登場する。その言葉を聴きながら、わたしたちは「nobody」がいるのではないかと思いはじめる。わたしの隣にいるかもしれないし、駅のホームに並んでいるかもしれない。この「日本人の子」の言葉を受けとったわたしたちは、別の視点から世界を見るようになる。つまり、それまで「誰もいない」と見ていたところに、「nobody」がいるという見え方への転換が起こるのだ。藤井貞和の詩は、見えないものを見えないものとして見えるものとするような、別のリアリズムを作り出す。

 しかし、注意しなければならないのは、わたしたちは今、「リアリズムを破壊するためのリアリズム」を生きているということだ。根こそぎ奪われた土地、一面のがれき、もう還ってはこない人々、人知を超えたエネルギーの脅威、自分自身しか武器にできない時代、自己責任論と搾取。これまでのリアリズムが破滅的な形で終わりを迎えようとしている。

 そのはじまりから、社会的な闘争と切り離せなかった魔術的リアリズムは、そうした「リアリズムを破壊するためのリアリズム」に対して、別の視点を提示できるのではないか。魔術的リアリズムは、いわば、小さなリアリズムである。しかし、徹底して個別的で特殊で人々の側に立つリアリズムこそが新しい視点を創り出す。魔術的リアリズムは、周縁にいる人々の側から現実を問い、その生命に寄り添い続ける(しかし、時に危うい)。イギリスのEU離脱アメリカ合衆国の大統領選など、「リアリズムを破壊するためのリアリズム」の猛威の中で、もう一度、生が見せる魔術を生きてみたい。

さて、ここで視点を変えて、哲学の、
いわゆる「存在」論における、
「存在」と対立する「無」という、
ことばをめぐって考えてみよう。
始めに例をあげよう。アメリカにいた、
友人の話であるが、アメリカ在任中、
アメリカの小学校に通わせていた日本人の子が、
学校から帰って、友だちを探しに、
出かけて行った。しばらくして、友だちが、
見つからなかったらしく帰ってきて、
母親に「nobodyがいたよ」と、
報告した、というのである。
ここまで読んで、眼を挙げたとき、きみの乗る池袋線は、
練馬を過ぎ、富士見台を過ぎ、
降る雪のなか、難渋していた。
この大雪になろうとしている東京が見え、
しばらくきみは「nobody」を想った。
白い雪がつくる広場
東京は今、すべてが白い広場になろうとしていた。
きみは出ていく、友だちを探しに。
雪投げをしよう、ゆきだるまつくろうよ。
でも、この広場でnobodyに出会うのだとしたら、
帰って来ることができるかい。
正確に君の家へ、
たどりつくことができるかい。
しかし、白い雪を見ていると、
帰らなくてもいいような気もまたして、
nobodyに出会うことがあったら、
どこへ帰ろうか。
(深く考える必要のないことだろうか。)


(藤井貞和「雪、nobody」)

12月19日(月)
 久しぶりに懐かしい友人たちと会ったのだが、体調が悪くて先に帰ってしまった。この1ヶ月は特に不調だった。いや、今年は不調の多い年であったといってもよい。しかし、後厄も終わる。来年こそは良い方に向かって欲しいと願いながら。

 林京子の短編集『谷間/再びルイへ。』が講談社文芸文庫から発売されたとのこと。『群像』(2013年4月号)に掲載された「再びルイヘ。」では、長崎での被爆体験と東日本大震災によって起こった、人災である原発事故とをつなぐ。それぞれの人の「立ち位置(ポジショナリティ)」によって、読み方が変わる一冊でもある。

12月20日(火)
 著作権について詳しい著作権情報センター(CRIC http://www.kidscric.com/index.html)という公益社団法人がある。用があって色々と問いあわせをする中で紹介を受けた。学術・思想・創作などにおける引用の4要件について備忘として書き記す(ただし、3要件とする人もいる。内容には相違ないように思う)。

 まず、自分の文章にとってこの引用が必要であるという明白な理由があり、自分の論を補強するための引用でなければならない(よく主従関係という言葉が使われるが、「従」という言葉はよくないので、私は主補関係と呼びたい)。また、鍵カッコ(「」)をつけるなど、必ず自分の言葉と他者の言葉を区分することが必要である。そして、誰がそれを書いたのか、出典を明記することが必須である。以上を踏まえて、慣行に照らしあわせ、しっかりと判断する必要があるとのことだった。

12月21日(水)
 ドラマ「わたしに運命の恋なんてありえないって思ってた」を見た。恋愛ゲームをつくる仕事をしている白野莉子(多部未華子)が、アプリ会社社長の黒川壮一郎(高橋一生)に、王子さまとか、年下可愛い系とか、俺様系とか、色々なキャラを背負わせる場面がおもしろかった。しかし、私が感情移入したのは、身を引いた百瀬さん。誰かの願いが叶うとき誰かが泣いている。

12月22日(木)
 「ユーリ on Ice」が終わった。私はしばらく立ち上がれないくらいの衝撃を受けた。優利が僅差で負けたことがあまりにもショックだったのである。次のシーズンがあるのではないか。そう思いつつ、ヴィクトルと優利の二人に金メダルを獲って欲しかった。しかし、勝負の非情を描いたことは見事だった。

 都留での講義があと2回。話をしに来てくれた学生さん、ホモフォビアミソジニーに違和感を表明してくれた学生さんにお礼申し上げる。一方、自分の言葉に責任を持たない人はいつか遠くから自分の言葉が矢のようにして帰ってくるだろう。世界はそれほど広く、多様であるということ。本人が目の前にいないときにしかいえない言葉に惑わされないでいるために文学や文化はあるのではないかと思う。

12月23日(金)
 懐かしい人たちと食事をした。楽しい時間だった。よいお年をといって別れる年末は好きである。

 エイブラム・カーディナー『戦争ストレスと神経症』(中井久夫加藤寛訳、みすず書房、2004)読了。

戦争ストレスと神経症

戦争ストレスと神経症